結果が出ない自分に、意味はないのか?
どれだけ頑張っても、数字に結びつかない。努力しても誰にも評価されない。
そんな「報われなさ」に、心がすり減っていませんか?
私もずっと、「結果こそ価値」だと信じていました。
人の役に立ちたい、信頼されたい、その一心で、がむしゃらに走っていた時期があります。
私は、特に人に失望されるのが怖いので、必要以上に勝手に頑張ってしまう癖があるんです。
でもあるとき、ふと立ち止まりました。
“何者でもない自分”を、そのまま認めた方がいいんじゃないか。と
「すごいこと」より、「当たり前を続けること」
そんなとき出会ったのが、塩沼亮潤(しおぬま・りょうじゅん)大阿闍梨の言葉でした。
きっかけは、YouTubeで偶然見つけた「あすか会議」(2016年)の動画です。
登壇していた妙心寺退蔵院の副住職・松山大耕さんが、塩沼大阿闍梨について、こう語っていました。
「この人、ほんまもんやと思ったんです」
同じ僧侶が宗派を超えて心から敬意を払うその実直な姿勢に強く惹かれました。
塩沼大阿闍梨は、奈良の大峯山で「千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)」を満行した数少ない行者の一人です。
1日48kmの山道を、9年かけて1000日間歩き続けるという、命がけの荒行。
途中で断念すれば「死を選ぶ」とされる過酷な修行ですが、大阿闍梨はそれを「自分を磨く時間だった」と語っています。
「大切なのは、すごいことをすることではなく、
当たり前のことを、当たり前のように、情熱を持って繰り返すこと」
歩く、食べる、祈る──。
派手さのないその繰り返しが、心の芯をつくる。
その言葉に、何かがほどけた気がしました。
無力な日こそ、「淡々とやる」
目に見える成果が出ない日。誰にも認められない日。そんな日ほど、こんなことを思い出してみてください。
朝、ちゃんと起きてベッドを整えた
通勤電車で、誰かに席を譲った
ご飯を丁寧に炊いた
部下や後輩の話に耳を傾けた
どれも「成果」ではないかもしれません。
でも、その積み重ねは、確かに自分自身を支えています。
静かだけど、確かな「力」がそこにはあるのです。
仏教の教えは、生き方に通じている
塩沼大阿闍梨は、宗教についてもこんなふうに語っています。
「信仰って、形じゃなくて“心”でやるもの。
一番大切なのは『愛』と『祈り』。宗派の壁も、そろそろ越えていいんじゃないかと思うんです」
その言葉を聞いたとき、「ああ、仏教って、特別なものじゃなくて、
日々をどう生きるかの“ヒント”なんだな」と、すとんと心に落ちました。
誰かの教えを“信じる”だけでなく、
誰かの痛みを“知ろうとする”こと。
それ自体が、祈りのようなものかもしれません。
結果を出す」より、「自分を見失わない」
焦りやプレッシャーにのまれそうなとき、私がよりどころにしているのは、香りと静けさです。
お香を焚いて、ただ、坐る。何もしない。ただ呼吸に戻る。
たったそれだけの時間が、自分を追い立てていた「無意識の焦り」を、やさしくほどいてくれます。
特に香りは、心を静かに整えるスイッチになります。
仕事の前、1日の終わりに、静かに香りとともに「何者でもない自分」に戻る時間をつくってみてください。
無力さを責めるより、今日を静かに積み重ねること。
それが、心の芯を育てる道かもしれません。
今日も1日お疲れ様でした。
明日も、善き日になりますように。
※この記事は、noteにて先行公開した内容を加筆・再構成したものです。
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