坐禅は「安楽」だった!? — 藤井先生を通して道元禅師に学ぶ、本当の坐り方

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以前に、坐禅に興味はあったものの、あの木の板というか木の棒(警策)で叩かれるのが怖くて、なかなか体験できなかった体験を書きました。

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その他にも「坐禅」と聞いて思い浮かべたのが、厳しい修行、足が痛い、じっと耐える我慢の時、、、

痛みこそ修行?と思い込んでいた

さらに坐禅といえば、ヨガなどでも見るあの足の組み方、結跏趺坐(けっかふざ)で足を組む事が坐禅で、痛みを耐え忍ぶことが修行だと信じていました。
むしろ、修行を積んでいけば、自然とあの姿勢に辿りつくものだとすら思っていたのです。

「これくらい我慢しなければ」「苦しみを乗り越えなければ」——そんなふうに、人生で味わう困難を、坐禅を重ね合わせていたように思います。

そして、あんなに有名な人、偉い人たちも座禅をするのだから、自分も体験してみたいという、ややミーハーな感覚とともに、そこまでしないといけないのか、と坐禅という、仏教というものに対して、どこか懐疑的な自分もいました。

藤井先生に教えて頂いた、道元禅師の教え

そんな私の思い込みが変わったのは、藤井隆英先生の講座を通してでした。
先生は、道元禅師の**『普勧坐禅儀』**をひもときながら、本当の座禅とは何かを教えてくださいました。

「所謂(いわゆる)坐禅は、習禅には非ず。唯、是れ安楽の法門なり。」
                               普勧坐禅儀

▷曹洞宗 SOTOZEN=NET

現代語訳としては「いわゆる坐禅というものは、何かを習得するための修行(習禅)ではない。ただ、これは安らぎと喜びに満ちた悟りの境地に入るための大切な門(=入り口)である。」という意味で、つまり坐禅をすること、それ自体が悟りである。ということだそうです。

藤井先生は繰り返し、
「坐禅をしたから安楽になるのではない。坐禅そのものが安楽なのだ」
と伝えてくださいました。

また、「只管打坐(しかんたざ)」についても、「ただ座る」とだけ説明すると誤解を生む、ともう少し詳しく、只管とは、単に「じっと座っている」ということではない。
「管」のように、行ったりきたり、さまざまな流れが自分の内側を通っていく。自分がその「管」のようになり、流れていくものをただ受け止め続ける。ジャッジをせず、ただ流れに委ねる。そういうあり方なのだと教えて下さいました。

この説明を聞いたとき、自分の中の坐禅のイメージが大きく変わりました。

結跏趺坐という「理想形」

修行の結果であの足の組み方に行きつくのではなく、そもそも結跏趺坐の形は、実は理にかなっているとのことです。
左右の膝とお尻の三点でしっかりと身体を支え、安定した坐り方。
だから、あの姿勢で座るのだと。

ですが、現代に生きる私たちの多くは、イス生活が基本です。
生活習慣も筋力も、昔の人とは違っています。だからこそ「形」にこだわりすぎることには、危うさを感じました。

形にこだわることの危うさ

現在では、臨済宗の円覚寺・横田南嶺管長が、椅子座禅の会を、積極的に開催されています。
伝統を大切にしながらも、時代に合わせた形で坐ることを、実践されています。

実は、曹洞宗では、かなり早い段階で、椅子での坐禅を提案したことがあったと藤井先生がおっしゃっていました。時代が早すぎたんでしょうか、、、そもそも修行僧に対して坐禅指導を行うことが多いので、イス坐禅は、そこまで大きな広がりにならなかったのでしょうか。。。

そもそも、「足を組む」「正座をする」といった形にこだわりすぎること自体が、仏教の本来の教えとずれているのではないか——そんな疑問が湧き上がりました。

かつて茶道を習おうとした時、あの正座の辛さが、大きな壁になったことがあります。
高齢の先生方が、膝が痛くてもう正座ができないので、茶道を教えることができないと、そんな話も聞きました。
「お茶席だから、膝が痛くなるわ~」とおっしゃる方もおられて、今から始めようと考える自分は、数年後も続けられるのかを考えると、茶道を今から習うのは、なかなか厳しいな。。。と思ったことでした。

そんな時、正座を廃止した煎茶道の流派のネット記事を見ました。
正座は本来、西洋では「拷問」とされてきた歴史があり、今の時代には時代に合った作法がある。
変わるべきところと、変わってはいけないところを見極めた上で、正座を手放した。
その考え方に、心から賛同し、煎茶道に興味を持つきっかけとなりました。

もちろん、正座の、あの凛とした居住まいは、本当に美しいと思います。

ただ、”正座”や”足を組む”ことにこだわるということは、
膝に痛みを抱える人、違う文化背景を持つ人、障害のある人たちを、無意識に排除してしまうことにつながりかねないか。。。

文化や伝統を守るために大切なことは、形を守ることではなく、本質を伝えることではないか?と考えると、自然と破天荒な禅僧たち——売茶翁や一休さん——の姿が思い浮かびました。

私のイメージでは、そういった既成概念や権力、制度などに常に厳しい目を向け、批判する事を恐れない僧侶が、特に禅僧に多いような気がします。

本当に大切なもの

坐禅は、そもそも「安楽」なものだった。その大切な本質に立ち返ると、自分自身が「こうあらねば」と形にこだわりすぎることが、むしろ仏教、禅の精神から離れてしまう。

学ぶということが、知らないうちに、「こうでなければならない」という偏った思い込みをさらに強めてしまうこともある。と思います。

それでいて、学びとは、新しい価値観に出会い、自分の偏りに気づき、変わることでもある。
藤井先生の教えを通して、そんなことにも気づかせてもらいました。

藤井先生が教えてくださった、曹洞宗の「只管打坐(しかんたざ)」——何かを得ようとするのでも、誰かに見せるためでもなく、ただ、静かに、ひたすらに坐る。そのあり方こそが大切なのだと。

また、藤井先生ご自身も、椅子を使った坐禅の会を開催されています。それは単に「椅子でもできる」坐禅という代替案ではありません。

坐禅というと、堅苦しく辛いものと捉えられることがありますが、本来は坐禅自体が深い心地よさの中で行われるものであり、その安楽さが日々の安らかさと幸せな生き方、そして健康作りの基礎となり、「からだ」「こころ」「人間関係」の改善に直接アプローチされるものなのです。

藤井先生の「安楽イス坐禅会 in 新宿」より

現代の私たちの体のあり方、生活環境を受け止めた上で、”今”に合った形で、坐禅の本質を伝えるために、椅子座禅を開催にしているのだと感じます。

座ることそのものが大切であって、形ではない。
そして、自分という「管」を流れるものを、ジャッジせず、ただ受け止めていく。そこに、形を超えた自由と、安楽があるのだと、今は感じています。

椅子坐禅や、正座を手放した煎茶道。これらは、「形ではなく本質を大切にする」という大きなヒントを私に与えてくれました。

「坐る」ことに、無理や痛みはいらない。そっと、自然に、静かに坐る、穏やかに生きる。そんな当たり前な事を教えて頂きました。

あなたの今日のひと呼吸が、どうぞ安楽でありますように。

※この記事は、noteにて先行公開した内容を加筆・再構成したものです。
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